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東西分断されていたドイツの村、「リトル・ベルリン」<国際ニュース : AFPBB News> [地理・歴史全般]



こんにちは、こういちです

冷戦時代(または、東西冷戦時代)を象徴する地域として、
東西ドイツ国境の村に関するAFPBB News記事を、
本ブログに掲載します。

ちなみに、実は「ベルリンの壁」は国境ではなかった
ということも、書き添えておきます。

【9月20日 AFP】南ドイツの小さな村メドラロイト(Moedlareuth)は、壁によって東西に分断された「リトル・ベルリン」だった。

 23年もの間、メドラロイトの中央にあった壁は、ベルリンの壁(Berlin Walls)崩壊と同じ1989年に除去された。それから20年、町は悲しみと懐かしさ、皮肉っぽいユーモアが入り交じった想いで壁の存在を振り返っている。

 東西に分かれていた時期、村の東側には23人、西側には27人が住んでいた。村議員のクラウス・グレンツナー(Klaus Gruenzner)氏によると「西側は北大西洋条約機構(NATO)、東側はワルシャワ機構(Warsaw Pact)が管理していた」。

 現在バイエルン(Bayern)州とチューリンゲン(Thuringia)州の州境になっている村中央を流れるタン(Tann)川が、東西ドイツの国境であり、すなわち鉄のカーテン(Iron Curtain)だった。

 最初はただの木のフェンスだった壁はすぐに鉄条網に変えられ、ついには1966年に東ドイツ当局がベルリンの壁と同様のコンクリート壁を建設した。全長700メートル、高さは3.3メートルあった。

■80メートルを東西の壁に分断された兄弟

 この壁にへだてられた兄と弟がいた。ゴラー兄弟(Goller Brothers)だ。

 当時の町長、アーノルド・フリードリッヒ(Arnold Friedrich)氏によると、東ドイツの制限は厳しく、東側のクルト・ゴラー(Kurt Goller)氏は、西側に住む弟のマックス・ゴラー(Max Goller)氏に手を振ることさえ許されなかったという。

 クルト氏は引退後にようやくマックス氏を訪ねることを許可されたが、たった80メートルしか離れていないその家に、正式な検問所を通って行くために80キロもの回り道をしなければならなかった。

 89年にようやく壁がなくなり2人が手を取り合ったとき、クルト氏は84歳、マックス氏は82歳だった。村人はみんなこの日のことを忘れられない。その数年後、2人は亡くなった。

■押し寄せた興味本位の観光客

 東メドラロイトに暮らすことは、扉のない牢屋にいるような生活だった。許可なしではお互い行き来することもできなかった。「近くの町で通勤していた近くの村人たちは、仕事場まで毎日3か所を検問所を通過しないと行けなかった」とフリードリッヒ元町長は言う。

 ベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日の晩、村人たちは寝静まり、「分断」が終わりを告げたことに気づかなかった。しかし、その影響は1か月後にメドラロイトにも押し寄せた。メドラロイトでも行き来ができるよう壁が切り取られたのは土曜日で、村人たちは通行が自由になるのを心待ちにして、壁の両側に並んだ。家族や旧友、近所の人たちとの23年ぶりの再会だった。

 最初に東側に足を踏み入れたのは、フリードリッヒ元町長だった。「自分の事務所にいたら、電話が掛かって来たんだ。町長、急いで来てくださいと」

 しかし、メドラロイトの人々はその歴史を語るのにいささかくたびれてもいる。壁が除去されると、遠方からも観光客が押し寄せ、カメラを持って個人宅の庭先まで村人たちを追い回すようになった。

「西ドイツ人の観光客らは、村中の家のドアをノックしてまわった。東側の暮らしぶりを知りたがっていた。水道はあるのかとか、テレビは見れるのか聞かれた」と、地元博物館のディレクター、Robert Lebegern氏は語る。

「まるで、動物園に住んでいるようだったよ」

(c)AFP/Yannick Pasquet


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