SSブログ
アフィリエイトならリンクシェア
地理・歴史全般 ブログトップ
- | 次の10件

有刺鉄線飛び越えた東ドイツ兵の彫刻、ベルリンに<国際ニュース : AFPBB News> [地理・歴史全般]



こんにちは、こういちです

本年2009年は、ベルリンの壁崩壊から20年。

20年前の1989年当時、ベルリンの壁が崩壊するなどとは
考えられなかった時代。年号が昭和から平成に変わった時代。

ベルリンの壁が本当に崩壊し、(東西ベルリン間の往来が
検問無しで自由化されたのが、実際の事案)、
やがて東西ドイツの再統一へと繋がっていく、
日本と世界の歴史が変わった時代でもあります。

ベルリンの壁(Berlin Walls)の建設が始まったばかりの1961年8月15日、建設現場に張られた有刺鉄線を飛び越えて東ベルリンから西ベルリンへ逃れた瞬間をとらえた写真で知られる東ドイツ兵士、コンラッド・シューマン(Conrad Schumann)さんを描いた彫刻が、ドイツ・ベルリンのベルナウアー通り(Bernauer Strasse)に設置されている。フロリアン・ブロイアー(Florian Brauer)、ミハエル・ブロイアー(Michael Brauer)夫妻とEdward Andersさんが製作した。ドイツは11月9日、ベルリンの壁崩壊から20年を迎える。

写真は、有刺鉄線を飛び越え西ベルリンへ逃れた東ドイツ兵コンラッド・シューマンさんを表現した彫刻(2009年9月18日撮影)。(c)AFP/JOHN MACDOUGALL


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

東西分断されていたドイツの村、「リトル・ベルリン」<国際ニュース : AFPBB News> [地理・歴史全般]



こんにちは、こういちです

冷戦時代(または、東西冷戦時代)を象徴する地域として、
東西ドイツ国境の村に関するAFPBB News記事を、
本ブログに掲載します。

ちなみに、実は「ベルリンの壁」は国境ではなかった
ということも、書き添えておきます。

【9月20日 AFP】南ドイツの小さな村メドラロイト(Moedlareuth)は、壁によって東西に分断された「リトル・ベルリン」だった。

 23年もの間、メドラロイトの中央にあった壁は、ベルリンの壁(Berlin Walls)崩壊と同じ1989年に除去された。それから20年、町は悲しみと懐かしさ、皮肉っぽいユーモアが入り交じった想いで壁の存在を振り返っている。

 東西に分かれていた時期、村の東側には23人、西側には27人が住んでいた。村議員のクラウス・グレンツナー(Klaus Gruenzner)氏によると「西側は北大西洋条約機構(NATO)、東側はワルシャワ機構(Warsaw Pact)が管理していた」。

 現在バイエルン(Bayern)州とチューリンゲン(Thuringia)州の州境になっている村中央を流れるタン(Tann)川が、東西ドイツの国境であり、すなわち鉄のカーテン(Iron Curtain)だった。

 最初はただの木のフェンスだった壁はすぐに鉄条網に変えられ、ついには1966年に東ドイツ当局がベルリンの壁と同様のコンクリート壁を建設した。全長700メートル、高さは3.3メートルあった。

■80メートルを東西の壁に分断された兄弟

 この壁にへだてられた兄と弟がいた。ゴラー兄弟(Goller Brothers)だ。

 当時の町長、アーノルド・フリードリッヒ(Arnold Friedrich)氏によると、東ドイツの制限は厳しく、東側のクルト・ゴラー(Kurt Goller)氏は、西側に住む弟のマックス・ゴラー(Max Goller)氏に手を振ることさえ許されなかったという。

 クルト氏は引退後にようやくマックス氏を訪ねることを許可されたが、たった80メートルしか離れていないその家に、正式な検問所を通って行くために80キロもの回り道をしなければならなかった。

 89年にようやく壁がなくなり2人が手を取り合ったとき、クルト氏は84歳、マックス氏は82歳だった。村人はみんなこの日のことを忘れられない。その数年後、2人は亡くなった。

■押し寄せた興味本位の観光客

 東メドラロイトに暮らすことは、扉のない牢屋にいるような生活だった。許可なしではお互い行き来することもできなかった。「近くの町で通勤していた近くの村人たちは、仕事場まで毎日3か所を検問所を通過しないと行けなかった」とフリードリッヒ元町長は言う。

 ベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日の晩、村人たちは寝静まり、「分断」が終わりを告げたことに気づかなかった。しかし、その影響は1か月後にメドラロイトにも押し寄せた。メドラロイトでも行き来ができるよう壁が切り取られたのは土曜日で、村人たちは通行が自由になるのを心待ちにして、壁の両側に並んだ。家族や旧友、近所の人たちとの23年ぶりの再会だった。

 最初に東側に足を踏み入れたのは、フリードリッヒ元町長だった。「自分の事務所にいたら、電話が掛かって来たんだ。町長、急いで来てくださいと」

 しかし、メドラロイトの人々はその歴史を語るのにいささかくたびれてもいる。壁が除去されると、遠方からも観光客が押し寄せ、カメラを持って個人宅の庭先まで村人たちを追い回すようになった。

「西ドイツ人の観光客らは、村中の家のドアをノックしてまわった。東側の暮らしぶりを知りたがっていた。水道はあるのかとか、テレビは見れるのか聞かれた」と、地元博物館のディレクター、Robert Lebegern氏は語る。

「まるで、動物園に住んでいるようだったよ」

(c)AFP/Yannick Pasquet


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

壁崩壊導いた「ピクニック事件」から20年、舞台の街で記念式典<国際ニュース : AFPBB News> [地理・歴史全般]



こんにちは、こういちです

1989年8月19日の「汎ヨーロッパ・ピクニック(Pan-European Picnic)」、
舞台となった街「ショプロン(Sopron)」(ハンガリー)については、
下記「関連ページ」を参照します。

この集会はやがて、「ベルリンの壁崩壊」に繋がります。


関連ページ:
「国境線で分断された島」
→項目『ノイジードラー湖に浮かぶ小島 オーストリア領とハンガリー領』
(「世界飛び地領土研究会(飛地)」内)
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/bundan

「世界飛び地領土研究会(飛地)」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/

「汎ヨーロッパ・ピクニック」(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%8E%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF

「ショプロン」(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%B3


【8月20日 AFP】「ベルリンの壁(Berlin Wall)」崩壊の引き金となった政治集会「汎ヨーロッパ・ピクニック(Pan-European Picnic)」から、19日でちょうど20年。舞台となったハンガリーの国境の街、ショプロン(Sopron)では記念式典が開かれ、アンゲラ・メルケル(Angela Merkel)独首相が、旧東独市民のオーストリアへの越境を容認したハンガリーに謝意を表明した。

 このピクニックは1989年8月19日、ハンガリーの民主化団体が欧州の将来を話し合う目的で行った。このとき、参加していた東独市民たちが西側への脱出をもくろみ、600人以上が鉄条網を開けてオーストリアになだれこんだ。

 旧東独で育ったアンゲラ・メルケル(Angela Merkel)独首相は、約200人が集まった式典で、「当時の東独政府に自由の渇望を示したすべてのハンガリー人と旧東独市民たちに感謝する」と述べた。

 式典には、ハンガリーのショーヨム・ラースロー(Solyom Laszlo)大統領、オーストリアのミヒャエル・シュピンデルエッガー(Michael Spindelegger)欧州・国際関係相も出席。ベルリンの壁のかけらをはめ込んだ大理石の像の除幕式が行われた。(c)AFP/Eszter Balazs



参考ページ:
「西ベルリン」
(「世界飛び地領土研究会(飛地)」内)
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/euro/berlin.html

「世界飛び地領土研究会(飛地)」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/

「ベルリンの壁崩壊」(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A3%81%E5%B4%A9%E5%A3%8A

「ベルリンの壁」(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A3%81

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

パナマ運河、開通から95周年<国際ニュース : AFPBB News> [地理・歴史全般]



こんにちは、こういちです

パナマ運河の開通から、今年で95年なんですね。

パナマ運河については、以下の通りです。

(1)1914年に5年の歳月を経て開通
(2)開通当初からアメリカ合衆国が管理する
(3)「運河地帯」についても、アメリカ合衆国の植民地(≒永久租借地)となる
(4)1977年、1999年末にパナマ運河及び運河地帯のパナマ共和国への返還が決定する
(5)1999年12月31日、パナマ運河及び運河地帯がパナマ共和国に返還される
運河地帯の駐留米軍も撤退する


参考ページ:
「パナマ運河地帯」
(「世界飛び地領土研究会(飛地)」内)
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/america/panama.html

「世界飛び地領土研究会(飛地)」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/


5年の歳月をかけ1914年に完成したパナマ運河(Panama Canal)が、開通から95周年を迎えた。現在は拡張事業が進んでおり、完成すればコンテナ1万2000個分の積載量があるスーパータンカーの通航も可能になる。写真はミラフローレス(Miraflores)閘(こう)門を通過する船(2009年8月15日撮影)。(c)AFP/Elmer Martinez


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

兵馬俑は秦始皇帝のものではない?中国で新説浮上<国際ニュース : AFPBB News> [地理・歴史全般]



こんにちは、こういちです

兵馬俑に関する新説が発表されたとのこと。
始皇帝が誕生する55年前とすると、中国は戦国時代ですが。

兵馬俑は、古代中国の秦王朝の時代に、始皇帝(政王)が自身の陵墓を
護衛するため、人間の兵士の代わりに、兵士や馬の人形(俑)を、
陵墓の護衛に当たらせた、という物です。

また始皇帝陵の周辺には、兵馬俑のほかにも、大量の人骨が発掘
されています。人骨とともに、生き埋め≒生贄にされた人間の位牌に
当たる木簡(生誕日、生誕地や、当たっていた仕事などが書かれている)
も発掘されています。

【8月13日 AFP】中国・陝西(Shaanxi)省西安(Xian)郊外にある兵馬俑(Terracotta Warriors)は、定説では秦の始皇帝(Qin Shihuang)の副葬品となっているが、実は先祖の宣太后(Empress Xuan)のものだとする説が、12日の国営英字新聞・環球時報(Global Times)に紹介された。

 歴史学者の陳景元(Chen Jingyuan)氏は、このほど刊行された自著『The Truth of Terracotta Warriors(兵馬俑の真実)』で、兵馬俑は始皇帝誕生の55年前に死去した宣太后の副葬坑だとの新説を提唱。兵馬俑坑と始皇帝陵(墓)の距離が離れすぎている点や、人形の兵士の髪型などを、根拠として挙げている。

 また、古い時代の文字が刻まれた兵士が数体見つかっていることや、始皇帝は兵士たちの衣装を黒で統一したと言われるのに、兵馬俑の兵士たちの服はさまざまに彩色されている点も指摘している。

 その上で、こうした特徴は兵馬俑が、「古代の西太后(Dowager Cixi)」とも称されるほどの権勢を振るった宣太后に関係していることを示していると主張する。

「宣太后の下、国は大いに繁栄した。つまり、兵馬俑のような壮大なプロジェクトを実行するだけの資金があったということだ」(陳氏)

 だが、他の歴史学者や考古学者らはこれに反論する。兵馬俑博物館の考古学チームを率いる劉占成(Liu Zhancheng)氏は、兵馬俑坑が始皇帝陵の敷地内にあること、兵士が携えている武器に始皇帝時代の宰相の名前が刻まれていることなどから、兵馬俑は秦始皇のものだと断言する。

 服装については、次のように説明している。「秦王朝では、確かに黒は特別な色とされ、人民は特別な儀式の際には黒を着ていた。だが、いつも黒を着る必要はなかった」(c)AFP


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

「アンネの日記」、ユネスコが世界記憶遺産に登録<国際ニュース : AFPBB News> [地理・歴史全般]



こんにちは、こういちです


【7月31日 AFP】
国連教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)は30日、
「世界記憶遺産」に「アンネの日記(Diary of Anne Frank)」ほか
34点を登録すると発表した。

世界記憶遺産は、歴史的文書などの重要な記録遺産を
保全するために1997年にユネスコが創設した制度で、
登録数はこれで計193点となる。

今年はアンネの日記のほか、タイの近代化に貢献した
ラーマ5世チュラロンコーン王の政策を記した文書など、
35点が新たに記憶遺産に指定された。

ユネスコによると、アンネの日記は「世界中で読まれた書籍トップ10」
のうちの1冊だという。
(c)AFP


「アンネの日記」は、オランダ・アムステルダムの「アンネ・フランクの隠れ家」
(または「フランク一家の隠れ家」)とともに、後世に遺すべき遺産だと、
私は確信しています。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

アラスカ購入は「良い買い物」、オバマ米大統領がロシアに謝意<国際ニュース : AFPBB News> [地理・歴史全般]



こんにちは、こういちです

AFPBB News、及び、下記「参考ページ」によると、


米国は1867年、アラスカを利益にならないと考えていたロシア皇帝
アレクサンドル2世(Alexander II)から、アラスカを720万ドルで購入した。

当時の米国ではアラスカ購入には批判が多く、取引をまとめた
米国務長官ウィリアム・スワード(William Seward)の名前を取り、
この購入を「スワードの冷凍庫(Seward's Icebox)」
(及び、スワードを「巨大な冷蔵庫を買った男」)と呼んで
冷笑していた。

しかし、数十年後に金と石油が発見されたことで、
アラスカ購入に対する米国の世論は賛成にまわった。

アラスカ購入を取りまとめた当時の国務長官スワードは、
「先見の明があった」ということになり、現在のアラスカでは、
「スワード・デイ」という祝日もある。


確かに、帝政ロシアを打倒したソビエト連邦(ソ連邦)にとって、
ソ連崩壊後のロシアにとって、帝政ロシアの北米大陸における
版図にあったアラスカを、二束三文で売却した
(アメリカにとっては720万ドルという超破格値で購入した)ことは、
地理的にも、不凍港確保といった戦略的にも、資源確保といった
経済的にも、言葉では言い表せないほどの大後悔でしょう。

本記事で「参考ページ」として紹介し、本ブログで私がリンク登録
している、「世界飛び地領土研究会(飛地)」のメインページを、
下記に参照して、本記事を締めくくります。

参考ページ:
「アラスカ」
(「世界飛び地領土研究会(飛地)」内)
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/america/alaska.html

「世界飛び地領土研究会(飛地)」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/

- | 次の10件 地理・歴史全般 ブログトップ
アフィリエイトならリンクシェア

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。